松本自転車浪漫譚

県の森にて

何というか、自転車に関するとても素敵な経験をしたので、書き留めておこうと思う。

ここ数年、松本市内を彷徨くことが多い。その始まりは、乗鞍と美ヶ原の2大自転車イベントである松本ヒルクライムの参加を始めてからだ。今年は両イベント共にエントリーすらしていないが、イベント応援を含め、5回くらいは松本に来ていると思う。

つい3週間ほど前も、乗鞍に来たついでに松本市内に下りて、献血とレコード屋巡りをしたばかりだ。

そして今日は、私の叔父と共に松本に来ている。叔父は少し前まで開業していた医師であり、出身は松本市にある信州大学である。御年84歳。以前から、死ぬまでにもう一度松本に行きたいと宣うこと数知れず。そこは唯一頭の上がらない叔父のためであるので、何らかの形で松本に連れて行くことは、私の中では決定事項であった。そしてようやくその日を迎えたと言うわけだ。

叔父は私の自転車のお師匠でもあるので、自転車も持って行った。市内を彷徨くには自転車が最適なはずだ。私が小学生の頃、秋川街道を今熊辺りまでサイクリングしたのが叔父との自転車師弟関係の始まりである。

現在の叔父の自転車はアシストのママチャリである。普通の自転車も乗れなくはないだろうが、年齢的にもアシストが相応しいだろう。そして、私はいつものカラクルを軽ワンボックスに積み込んで松本へとやって来た。松本城の近くのコインパーキングに車をデポして自転車を下ろす。まず目指したのは信州大学の大学病院だ。

もちろん60年前には影も形もない建物だが、叔父の希望は、そこの最上階にあるレストランからの展望を楽しみたいと言うことだった。駐輪場に自転車を停めて、医療にかかるわけでもない2人が中に入っていく。病院入り口の側では、すでに巨大なファンヒーターがゴウゴウと焚かれており、寒い地方の病院であることを実感した。エレベーターで最上階である6階まで上り、レストランでコーヒーを飲む。そこからの展望は確かに素晴らしく、松本市内と紅葉した周囲の山々が一望できた。

レストランのメニューもかなり充実しており、昼時の賑わいを思わせる。機会があれば、食事にも来たいところだ。

病院を出て、裏手にある信大キャンパスの中を自転車で抜けて行く。何一つ昔の面影などないとは思うが、叔父は何やら楽しそうだ。キャンパスを抜けると、女鳥羽川沿いの道に出たので、そのまま川沿いを市内の方へと下っていく。途中、あの辺に中華料理屋があって…裏に友達が下宿していて…等々、思い出は尽きない様子。

さらに下って、お次は県(アガタ)の森へとやって来た。残念ながら、資料館は休館日であったので、公園内を散策した。当時は信大の講堂もここにあったらしく、叔父は感慨深げにあちこち見て回っていた。公園内は綺麗に手入れされており、近所にお住まいと思しき市民の方々が、温かい陽射しの中で思い思いに楽しんでいたのが印象深い。

県の森からは、ほぼ真っ直ぐに松本駅までの道が延びている。今は、僅かに曲がっていた道を完全に真っ直ぐに作り替えているようで、あちこち工事中だ。走りずらい道を女鳥羽川の方に避けて、裏路地を走る。再開発された中町通りへと繋ぐ細い路地にも小さなお店が点在しており、活気のある街であることが伺い知れる。

中町通りは観光用の一方通行の道。所々に昔ながらの建物があるが、真新しいなまこ壁に囲まれたお店たちはちょっと違う感じかな?その中町通りから四柱神社に抜ける路地の角におきな堂がある。とても歴史を感じる佇まいの喫茶レストランだ。私も松本に来た時にはよく利用するお店だが、叔父が学生の頃からあるとのこと!貧乏学生の当時はコーヒーしか飲めなかったらしいが、今日は贅沢にもランチを食した。私は煮込みハンバーグを、叔父はハヤシライスを注文した。提供時間は早いが、味はとても良い。量は…58歳の私と84歳の叔父にはちょうど良いと言えばわかるだろう。

さて次はどこへ?と思っていると、叔父は何かに導かれるかの如く、中町通りを挟んで反対の路地に入っていく、その先には私が数年前から気になっていた自転車屋くらいしかない。店の前にはうず高く自転車関連の雑多なものが積まれ、人1人がようやく通れるかどうかの僅かな通路が薄暗い店内へと延びているため、私も自転車仲間も誰1人として入れなかった店だ。その前で立ち止まった叔父は…

ガラリと引き戸を開けて、

「岡田さんいるー?」

と叫んでる。岡田さん?だ、誰?

「河野です、60年前に世話になった!わかる?」

と来たもんだ。いやいや、じゃあ店主は何歳だよ?そんな昔のこと急に言われて覚えてるはずかない…

中から出て来たのは…小さいお爺さん?頭には、なぜか黄色いサイクルヘルメットを被ってる…

どうも、叔父のことがわかったらしく、突然表情が明るくなった岡田さん。ちょっと待ってと店内に戻りヨレヨレのブレザーを纏って再登場。ヘルメットは外して来た。どうやら、身だしなみを整えて来たらしい。

その直後から、次々と昔のことを話し出す叔父。あの自転車どうしたの、あの人どうしたのと会話が成り立ってる…いや待て、私が生まれるより昔の記憶って、そんなに鮮明か?覚えてるものか?去年じゃねーぞ。60うん年前だぞ?堰を切ったように饒舌に喋る84歳の叔父と91歳の岡田さん!91歳?いやいやいや、待て待て待て!もうツッコミどころが多すぎて、整理がつかない…

もう、タマゲタなんてもんじゃない。ここ数年で最大級の驚きである。

そうだよ、タマゲてる場合じゃない!店主の岡田さんに許可を取り、店内を足を踏み入れる…魔窟と思っていた店内は…ここは楽園だ(当社比)…ヤバい…あちこちにぶら下がっているお宝、堆積物の間から覗くお宝…宝しかない(当社比)…なんてことだ…

叔父が話の合間に私の話題を挟んで、この甥っ子(58歳)は美しや乗鞍にも出てるんですよと言う話題になった時、岡田さん曰く、

「僕も美しの時には、会場で修理やってるんですよ」

え?あの修理のコーナーにいるお爺さんの片方の方、岡田さんだったの?もう、盛りだくさんすぎるわ!岡田バイシクル!←店名ね。

昔話は尽きないが、次なる再会を約束した2人はとても満足そうだ。本当に今回の松本は来て良かった。久しぶりに嬉しそうな叔父を見ることができたし、私にとっても大収穫であった。考えてもみれば、私が松本に来るようになったのも、40年ほど前の学生時代の自転車仲間との縁である。その仲間との縁がこれからもずっと続いていくことを考えると、自転車という乗り物のもたらす人生における経験がいかに印象深いものであるかを再認識した次第である。

さあ、次に松本に来た時は…まず、岡田バイシクルかな!?いろいろ楽しみである。